私、グレーゾーンです。

2年前、ADHDとアスペと診断されたグレーゾーンの女の奮闘記。

グレーゾーンの私が過去を振り返ってみた

一番最初にあたるブログを何を書こうか...と迷った結果、

過去を振り返ってみることにしてみた。

 

私の過去はというと、幼少の頃から、

「出来損ない」「人より時間がかかる」「協調性がない」

「思ったことをズバッというのでサバサバしている」

「友達にあまり恵まれなかった」

など今振り返れば発達障害の特性に過ぎないのだが、

当時は個性だ、個性!と言い聞かせた。

 

まず、私が発達障害という名前を知ったのは、

一昨年の3月だった。

仰天ニュースで発達障害の特集があっていたのだ。

正直ブサイクな女の人に、「なんであんたはブサイクなの?」

ってストレートに聞いたり、名字がヘンミさんだから、

「ヘンちゃん」「ヘンちゃん」

と言われていたり。

 

これをみても正直ピンと来なかったのだ。

なぜなら

「私はこれに該当しない、

まあ多少はみんなこういうところあるよね」

 

微塵も可笑しいと思わなかったのだ。

 

当時私は百貨店の販売員で働いており、

自分としては真面目に働いていたのだが、

毎日何かしらのミスをし、怒られていた。

怒られすぎて、二次障害を起こしかけていたくらいだ。

初めての販売員。

化粧品の知識に関しては長けていたのだが、

洋服に関しての知識など皆無に等しかった私にとって、苦痛で、苦痛で仕方なかった。

バックヤードで洋服を直したり、

1人で作業している方が楽だった。

 

でも、そこでも苦悩な連続。

地図が読めない私にとって、

「ここに行ってこれを直してきて」

「今からこれを30分以内に直してきて」

と言われても、

初めて直す場所は全くわからない...把握するまで探す日々。

「どこだ、どこだ」

と行って探していれば30分なんて過ぎてしまう。

心配した上司が、

「大丈夫?」って見に来るが、 

目の前が見えなかった私にとって、

「ここだよ、ここ」

って上司に言われるが、

“ここ”の意味が全くわからない。

 

でもそれが普通だと思っていた。

 

何故なら常識って家庭によるものであり、幼稚園、学校、社会にもまれながら形成されていくものであると思う。

「私の常識は場所がわからなくて当たり前、2回目で覚えればいいか、

彼が、友達が地図を読んでくれるからそれでいいか」

とすべて人任せであったのだ。

 

「社会ってこんなに生きにくいのか...

こんなにしんどいのか...

お金をもらうのにここまで奉仕しないといけないのか」

と社会の厳しさを痛感したのは高校卒業してしばらく経ってからであった。

 

結局、「派遣は1ヶ月で打ち切ってほしい」

と、当時の店長から申し出があり

私の向かなさすぎる販売員生活は幕を閉じた。

 

発達障害に関しては無関心であったのだが、

2016年4月、福岡であるアーティストのライブへ行ったのだ。

その時に、携帯をタクシーに置いてきてしまった

という事件があったのだ。

 

結局、タクシーの運転手に電話をし、

携帯を返してもらえたのだが、千円要求された。(後々そこのタクシー会社にクレームの電話をして、返してもらったのだが(笑))

 

帰りの新幹線の時に、

ネットサーフィンと呼ばれるもので、

“物忘れ 酷い”

で検索したのだ。

 

そしたら、

もしかしたらADHDなのかも…

という検索が大量に出てきて、

「私はADHD気質な女なのか…」

と理解した瞬間であったのだ。

 

www.adhd-navi.net

 

だが、仕事を変えれば何とかなる…?

とおもった私は、

夢であった化粧品専門店の店員になることを決意したのだが、

苦悩の連続であった。

 

それは、ミスが許されない検品作業があったのだ。

ADHDの特性上、ミスをしていることさえもわからない。指摘されて初めて気付くし、ミスをしていることさえもわからないから、「え、私じゃないです」って思ってしまう。けども、伝票を見ると私のサインもしてあるし、「あ、私がやらかしたのか」ってなっていた。

 

そのため、聴覚過敏や視覚過敏によって店内の有線、お客さんの声など周りの雑音をダイレクトに捉えてしまう私にとって

店舗内で検品をしなきゃいけない、バックヤードで検品することは許されない私にとって酷でしかなかった。しかも、数多くの商品が定期的に毎日送られてくるのだが、(朝は山盛りの商品の検品に追われる毎日)

狭い空間の中、検品表と同じバーコードを導き出し、ハンディ―を通す作業でどれだけミスをし、

どれだけ怒られ、何度も確認をし、意識をして、自分流に工夫しても改善することはできなかったのだ。

 

店舗内で怒られ、引きずりながら休憩に入り、

ふとまたADHDについて検索した結果、

多かれ少なかれほぼ全部当てはまっていることに気づいたのであった。

 

「この毎日怒られ、食事ののども通らないような環境から解放されたい!!」

ともった私は、駆け込むように心療内科へ中学2年の時一時期通っていた心療内科へ予約を入れたのだ。

 

担当の医師に、今までのことを全部話した。

仕事ができなかったこと、いじめられていたこと、ハブられていたこと、何をしてもうまくいかなかったこと… 

など、一時間におけるカウンセリングを行った。

その後、「家でこちらを解いてきてください。」

と渡されたのは、

皮肉や、比喩が大量に書いてあった用紙であった。

 

私は、わかる範囲で書いた。

 

その後、WAIS-3*1を受けたのだが、

「あれ?どっかで見たことがある?」

と思ったのだが、同じテストを中2、高2で三年周期でそれぞれ受けていたのだ。

 

診断結果、やはりADHDアスペルガー症候群であった。

母親に「確かお嬢さんは、中2、高2と同じテストを受けられているようですが、

結果はご存知ではなかったのですか?」

と尋ねられたが、母は何のテストを受けているか、どういう結果だったのかを全く理解しておらず、その前にその結果を封印していたのだ。

 

その後担当医から、

「お嬢さんはやはりADHDを持っておられます…」と説明の後、

「あと、冗談や皮肉や比喩を書いた紙などを渡しましたが、

その結果からわかるのは、お嬢さんはアスペルガー症候群も持っておられます。」

と言われたのだ。

 

その後、特性や、同じ障害の有名人など、

主治医が作ってくれたスライドショーで説明された。

 

母は、「まあ、世の中いろんな人がいるさ」

と言ってくれ、その後のテレビなどで放送されている発達障害特集も、積極的に見てくれるようになった。

 

私は、20年間の重りがとれほっとしたのだが、

母に「これが戦いなのだからね…」

とそういわれた。

今思えば、そうだと思う。毎日この障害と葛藤しているので。

 

診断結果の後、

会社に行き、報告をしようとしたら、

二番手の上司に(いわゆる副店長という立場)

「そういやめいいいいいいと似た人がいるんだけど…」

と言われたので、

どんな人か聞いたら、

「手先が器用ではなくて、ちょっとオタクっぽくて、結構友達との約束とかを忘れてしまったり するような子(笑)」

って言ったので、

「その人に病院行くことをお勧めします」

と言ったら、

「ああ、病院行ったよ。確かADHDって言ってた。」

「あ、そうなんですか。私も病院で診断受けたところで…」

「そうだったんだ。だからああだったのね。まあ、仕事のことやプライベートなことで相談があれば、私に言ってきて。その代わり、ADHD持ちだからと言って、甘やかしたりはしないからね。」

 

と会話をしたことを覚えている。

 

会社には、カミングアウトをし、オープンで働くことを決めたが、

3か月たってもレジをさせてもらえない(というより、私がレジが苦手だといったからだと思う)私は雑用係であり、腫物だったので、店長に辞めてもらうように促された。

もともと震災の影響で仕事に出れない人の代わりに私が雇われていたのだが、その人も復帰すると言うことで、タイミングが良かったのかもしれない。

 

そこから私は、3か月ほど発達障害向けの移行訓練に通う手続きなどをしながら、

金がないので、不規則なぐうたらぐうたら生活を送ったのであった。

 

 

 

 

*1:18歳以上が受ける全調査IQ、言語性IQ、動作性IQという3つのIQと言語理解、知覚統合、作動記憶、処理速度などを測るテストのこと